こんばんは!
墨田区の保育士、たなこうです!
今日は、夫婦円満のための、重要なキーワード「家事分担」について話してみたいと思います。
子どもたちを育てる環境として、夫婦関係って重要です。
そして、子育て世帯に良くある悩みが「夫婦の家事分担」です。
「旦那が、なにもやってくれない」
「子どもと週末に遊ぶだけで、イクメン気取り」
そんな声も、ちらほらと聞こえてきます。
子育てに疲弊する奥さんの姿を見て、男性が「手伝うよ?」と軽々しく言ってしまい、奥さんの逆鱗に触れることも少なくありません。
「手伝う」という言葉の裏にあるのは、「私の仕事ではない」という無責任さ。
子育ては「夫婦の仕事」であって、決して奥さんひとりの仕事ではないはずです。
でも、こういうことって、男性は、いまいちピンときません(笑)。
夫婦の家事分担。
皆さんは、どうされていますか?
しかし「家事とはなにか?」と考えてみると、あくまでも「その住居の快適な居住空間を維持するための作業」と定義づけられるかと思います。
つまり、家事の恩恵は、住んでいる全員が受けている、ということになります。
そして、恩恵を受けるならば、義務も発生します。
よって、基本的には「家事は、その家屋の住人に等しく課せられた義務である」と考えられます。
しかし、たとえば会社でも、職場の維持運営に関しては「総務課」などが専門的に担当していたりもします。すべての従業員に蛍光灯の交換をさせるよりも、分業化する方が効率が良かったりするからです。
そして、家庭内でも、同様に、家庭内分業制を主張する人もいます。
たいてい、家事は奥さんが担当すべし、内助の功なりけり、かしこみ、かしこみ…と呪文のように唱えられているようです。
個人的には、夫婦のカタチは千差万別、それこそ、夫婦の数だけ、夫婦のカタチがあると思っています。
夫婦の「かくあるべし」は、誰かに与えられるものではなく、夫婦二人で選び取っていくものだと考えています。
だから、わたしは「家庭内分業」にも「夫婦平等分担」にも賛同しません。
さらにいえば「平等な夫婦」という考え方は、とても危険だと考えています。
「平等」ということは、「私の負担」=「相手の負担」でなければなりません。
そして、もしも、「相手の負担」>「私の負担」だったなら、すぐさまダメ出しを喰らわせることになります。
つまりは、相手の負担状況を、常に監視しつづけることになるのです。
これが、いかに不毛な状態か、容易に想像できるでしょう。
誰かが利益を得たら、誰かが損をする状態、すなわち“ゼロサムゲーム”の状態です。
限られたパイの奪い合いになるため、不和と疑心に満ちた関係性になりがちです。
しかも、家事においては、常に、同じ内容・同じ量の作業があるわけではないのです。
掃除機をかけた30分間と、赤ちゃんのオムツを買いに出かけた1時間では、どちらの負担の方が重いのか、判断するのは容易ではありません。
結局は「私が大変なのは、あなたがラクをしているからだ!」と断罪することになりかねません。
そんな関係性が、子どもにとっても、親にとっても、良いものではないことだけはおわかりいただけるかと思います。
そういった理由から私は、「平等な夫婦」という考え方、さらには、夫婦の平等性を前提とした「家事の完全分業」には、反対しています。
では、日々あふれかえる家事の数々は、どうしたらよいのでしょうか?
その答えは、とても単純です。
“家事を、自分のものだと思わないこと。
相手のための家事だと思うこと。”
冒頭にも書いたとおり、家事とは「その家屋の住人に等しく課せられた義務」です。
つまり、家事をすることは、自分のためだけでなく、同居する相手のためにもなるのです。
だから、私にもいろいろ事情はあるけど、できる範囲で、相手の手間を減らしてあげよう、と考えるのが、私の提唱する家事分担スタイルです。
たとえば、夕食を終え、ふとキッチンをみると、汚れたフライパンが置いてあったとします。
完全分業スタイルでは、私の仕事ではないものは、手を出す必要がありません。フライパンはそのまま放置し、もしかしたら、担当しているクイックルワイパーでもサッとかけて、あとはテレビを見るために冷蔵庫からビールでも持ち出して、にっこり満足するのかもしれません。
一方で「相手のための家事」スタイルでは、違います。
汚れたフライパンは、いつかは、誰かが洗わなければなりません。
自分が洗わないということは、相手に対して「洗え」と家事を押しつけていることに他なりません。
なにか優先順位の高い予定が他になければ、私がフライパンを洗うべきなのです。
そして、もしも、予定があれば、それはきちんとパートナーに説明して、フライパンの片付けをお願いすればいいのです。
とても単純明快だと思います。
とはいえ、効率が悪いのも事実です。
だからこそ、慣れてくると、誰がどの家事を担当するのか、ざっくりとパターン化されてきて、なんとなく分担めいたものができあがってきます。
たとえば、私の家庭では、日中、買い物に出かける奥さんが、そのまま料理も担当します。その方が、食材の購入と調理が、うまくリンクするからです。
しかし、絶対に私が料理しないかというと、そんなことはありません。
手が空いていれば、一緒にキッチンに立つし、あるいは、奥さんが手を離せない場合は、私が料理を担当することもあります。
ぼんやりとした分担スタイルはあるものの、状況に合わせてフレキシブルに変動するのです。
その根底にあるのは、あくまでも「相手に家事を押しつけない」という思想です。
完全分業スタイルが「自分目線」だったのに対し、完全に真逆な、「相手目線」での夫婦生活を前提としていることがわかるかと思います。
「とはいえ、男に家事なんてお願いしたくない…」という方もいらっしゃることでしょう。確かに、男性の家事にも問題がある、というのもよく聞く話です。
次回は「男性の家事の問題」そして、その解決編として「男性と家事を分担する方法」について、考えてみたいと思います。
お楽しみに!!
墨田区の保育士、たなこうです!
今日は、夫婦円満のための、重要なキーワード「家事分担」について話してみたいと思います。
子どもたちを育てる環境として、夫婦関係って重要です。
そして、子育て世帯に良くある悩みが「夫婦の家事分担」です。
「旦那が、なにもやってくれない」
「子どもと週末に遊ぶだけで、イクメン気取り」
そんな声も、ちらほらと聞こえてきます。
子育てに疲弊する奥さんの姿を見て、男性が「手伝うよ?」と軽々しく言ってしまい、奥さんの逆鱗に触れることも少なくありません。
「手伝う」という言葉の裏にあるのは、「私の仕事ではない」という無責任さ。
子育ては「夫婦の仕事」であって、決して奥さんひとりの仕事ではないはずです。
でも、こういうことって、男性は、いまいちピンときません(笑)。
夫婦の家事分担。
皆さんは、どうされていますか?
家事とはなにか?
もちろん、家庭によって考え方は異なるでしょう。しかし「家事とはなにか?」と考えてみると、あくまでも「その住居の快適な居住空間を維持するための作業」と定義づけられるかと思います。
つまり、家事の恩恵は、住んでいる全員が受けている、ということになります。
そして、恩恵を受けるならば、義務も発生します。
よって、基本的には「家事は、その家屋の住人に等しく課せられた義務である」と考えられます。
しかし、たとえば会社でも、職場の維持運営に関しては「総務課」などが専門的に担当していたりもします。すべての従業員に蛍光灯の交換をさせるよりも、分業化する方が効率が良かったりするからです。
そして、家庭内でも、同様に、家庭内分業制を主張する人もいます。
たいてい、家事は奥さんが担当すべし、内助の功なりけり、かしこみ、かしこみ…と呪文のように唱えられているようです。
個人的には、夫婦のカタチは千差万別、それこそ、夫婦の数だけ、夫婦のカタチがあると思っています。
夫婦の「かくあるべし」は、誰かに与えられるものではなく、夫婦二人で選び取っていくものだと考えています。
だから、わたしは「家庭内分業」にも「夫婦平等分担」にも賛同しません。
家事の「平等」の危険性
さらにいえば「平等な夫婦」という考え方は、とても危険だと考えています。
「平等」ということは、「私の負担」=「相手の負担」でなければなりません。
そして、もしも、「相手の負担」>「私の負担」だったなら、すぐさまダメ出しを喰らわせることになります。
つまりは、相手の負担状況を、常に監視しつづけることになるのです。
これが、いかに不毛な状態か、容易に想像できるでしょう。
誰かが利益を得たら、誰かが損をする状態、すなわち“ゼロサムゲーム”の状態です。
限られたパイの奪い合いになるため、不和と疑心に満ちた関係性になりがちです。
しかも、家事においては、常に、同じ内容・同じ量の作業があるわけではないのです。
掃除機をかけた30分間と、赤ちゃんのオムツを買いに出かけた1時間では、どちらの負担の方が重いのか、判断するのは容易ではありません。
結局は「私が大変なのは、あなたがラクをしているからだ!」と断罪することになりかねません。
そんな関係性が、子どもにとっても、親にとっても、良いものではないことだけはおわかりいただけるかと思います。
そういった理由から私は、「平等な夫婦」という考え方、さらには、夫婦の平等性を前提とした「家事の完全分業」には、反対しています。
では、日々あふれかえる家事の数々は、どうしたらよいのでしょうか?
家事分担の基本は「相手のために」
その答えは、とても単純です。
“家事を、自分のものだと思わないこと。
相手のための家事だと思うこと。”
冒頭にも書いたとおり、家事とは「その家屋の住人に等しく課せられた義務」です。
つまり、家事をすることは、自分のためだけでなく、同居する相手のためにもなるのです。
だから、私にもいろいろ事情はあるけど、できる範囲で、相手の手間を減らしてあげよう、と考えるのが、私の提唱する家事分担スタイルです。
たとえば、夕食を終え、ふとキッチンをみると、汚れたフライパンが置いてあったとします。
完全分業スタイルでは、私の仕事ではないものは、手を出す必要がありません。フライパンはそのまま放置し、もしかしたら、担当しているクイックルワイパーでもサッとかけて、あとはテレビを見るために冷蔵庫からビールでも持ち出して、にっこり満足するのかもしれません。
一方で「相手のための家事」スタイルでは、違います。
汚れたフライパンは、いつかは、誰かが洗わなければなりません。
自分が洗わないということは、相手に対して「洗え」と家事を押しつけていることに他なりません。
なにか優先順位の高い予定が他になければ、私がフライパンを洗うべきなのです。
そして、もしも、予定があれば、それはきちんとパートナーに説明して、フライパンの片付けをお願いすればいいのです。
とても単純明快だと思います。
とはいえ、効率が悪いのも事実です。
だからこそ、慣れてくると、誰がどの家事を担当するのか、ざっくりとパターン化されてきて、なんとなく分担めいたものができあがってきます。
たとえば、私の家庭では、日中、買い物に出かける奥さんが、そのまま料理も担当します。その方が、食材の購入と調理が、うまくリンクするからです。
しかし、絶対に私が料理しないかというと、そんなことはありません。
手が空いていれば、一緒にキッチンに立つし、あるいは、奥さんが手を離せない場合は、私が料理を担当することもあります。
ぼんやりとした分担スタイルはあるものの、状況に合わせてフレキシブルに変動するのです。
その根底にあるのは、あくまでも「相手に家事を押しつけない」という思想です。
完全分業スタイルが「自分目線」だったのに対し、完全に真逆な、「相手目線」での夫婦生活を前提としていることがわかるかと思います。
「とはいえ、男に家事なんてお願いしたくない…」という方もいらっしゃることでしょう。確かに、男性の家事にも問題がある、というのもよく聞く話です。
次回は「男性の家事の問題」そして、その解決編として「男性と家事を分担する方法」について、考えてみたいと思います。
お楽しみに!!
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